分福茶釜

必要十分と、少しの贅沢

今のままの自分を好きになる、とは

恋に破れて、呆然としながらも、同じような辛い恋のパターンを冷静に感じてきている自分がいる。

 

私は辛い恋が大好きなのかもしれない。

思わせぶりな態度をとるくせに、私に告白してきてくれた人をこっぴどく振ってしまったり、好意がありそうな男の子に冷たい態度を取ってしまったりする。

 

自分に恋愛感情を持たれていると気づくと、途端に気持ち悪く、逃げ出したくなってしまう、ひどい女。

 

その代わりに、私に興味なさそうなお金持ちで頭のいい人が大好きで、

毎回私がどハマりして、身も心も全て捧げてしまうのは、そういう、私のことをあしらって、全く振り向いてくれない人ばかりだった。

 

それはなんでだろうか、といろんな本を読んでいると、私はわたしのことが嫌いなのだろう、という結論に達した。

 

自分が、自分のことをダメだとかダサいとかバカだとか要領が悪いと思っているから、私のことを好いてくれる人のことをセンスがないやつだと見下してしまう。

 

代わりに、私に興味がなくて、明らかに私よりもお金持ちで頭のいい人がいると、ああこの人はわかっている、自分より上の人だ、ということになって、追っかけたくなってしまう。

 

だからこそ、私は、私のことを愛さなければ、一生この苦しい恋をしなければいけなくなってしまうのであった。

 

自分を好きになりましょう、とか、ありのままの自分で、とかよく耳にするけれど、

私は、自分を好きになるために、何か変わらなければならないと思ったし、

ありのままを素晴らしくするために鍛えなければならないと思っていた。

 

でも、そもそもそういうことをするのは間違いで、変わらなきゃ、と思う前の自分のままでよかった。

というか、自分というものはそんなに変われない、と最近気づいてきた。

 

自分を愛さなきゃ、じゃなくて愛すしかない。

自分は自分でしかなくて、他人にはなれないのだから、もう愛したほうが楽だ、認めた方が楽だ、という話。

他人と比べてはいけないのではなく、他人と比べても自分以外にはなれないから意味ないからやめとけ、という話、

 

ある意味で諦めだし、観念。

 

ああ、自分は自分でしかないんだ、という事実に気づいた人から、仕方なく、自分を愛していくことができるのかもしれない。

 

そして、それに気づくのは結構むづかしくて、苦しみの末に、ふと気づくその瞬間をまたなければならないのかもしれない。

 

頭でわかるだけでなく、ああこういうことか、と。

 

3回目の辛い恋が終わったところで、私は気づいたけど。

 

やはり人間は経験からしか学べないのかもしれない。

 

人生は、どんどん気づいていって、この世が空虚であることを観念していくための修行なんじゃないだろうか、と、

 

終わった恋の傷跡がヒリヒリ痛くて、そんなことを考えたりしている。