分福茶釜

必要十分と、少しの贅沢

里山の静けさ

最近奈良の山奥の宿屋に泊まった。

 

とても素朴な宿で、気取らなくて、おばあちゃんちのような雰囲気でとても気に入った。

 

お風呂には柚子が浮かんでいて、部屋の窓からは大きな紅葉の木と流れる川がすぐそこに見えた。

 

晩御飯も、一品づつ運ばれてくる感じじゃなくて、ある程度まとまってお膳が用意されている。

 

広い二間続きの部屋の襖を開けた片方の部屋にもう布団が敷いてあった。

 

旅館で、布団を敷きに来てもらったり、料理を運んできてもらったり下げてもらったりすると、手伝いたくなってしまうから、庶民の私はこんなふうに程よくほっておかれるのが心地いいんだなと思った。

 

とにかく静かな時間だった。

 

国内で日常を忘れることなどできないと思っていたのだけれど、今回泊まったところは心の底からリラックスできた。

 

何もなくて、ぼーっとすることに専念できる空間だと思った。

 

城崎にも有馬にもないと思う。

 

お風呂の小柚子をお湯の中に沈めるとゆっくり浮かんでくる様子。

お風呂から上がって、置き時計の振り子だけが揺れる部屋でそれを眺めている時間。

 

時間が永遠にあると思っていた子どもの頃のおばあちゃんちを思い出した。

 

何もないということがあることの貴重さを感じる。

 

耳の中が里山の静寂に満たされていることの幸福感。

 

私はわざわざAirPodsを3万円出して買って、毎朝川のせせらぎをSpotifyで聞いて仕事に向かっているのだから、都会は豊かなのかなんなのかわからないなと可笑しく思う。

 

静かな時間こそが、私の心を休めて満たしてくれるんだと心底気付かされた。

大阪に帰ってきて難波の街を歩いたのだけれど、欲しいものは何もないと思ってすぐに家に帰った。

 

欲しいものはないと思っていたけれど、すぐにまた忘れて、気づいたら、またシャネルのパウダーが欲しかったり、売り切れてしまったコートを手に入れたくてたまらなくなってしまっている。

心に里山を設けられたらいいのだけれど、なかなかそんなことはできないから、何度でも行ってまた思い出したいと思う。